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モリスの別荘、「地上の楽園」ケルムスコットマナー
ケルムスコットマナーはイングランド南部のコッツウォルズにあるケルムスコットという小さな村にある屋敷で、ウィリアム・モリスが別荘として使用しておりました。 ケルムスコットマナーとは ケルムスコットマナーは、イングランド南部のコッツウォルズにあるケルムスコットという小さな村にあり、ウィリアム・モリスが別荘として使用していました。 1871年にケルムスコットマナーをはじめて見たモリスは「地上の楽園」とも称したそうです。 1570 年頃に建てられもので、歴史的価値の高い建造物としてグレード1の指定を受けています。 モリスが使用するようになってからも、地元で調達した建築資材でこの地方に伝わる建築手法(チューダー様式)で建てられた古い建築の保存にこだわり、この家を真の職人技の作品として愛したモリスは外観を含めできるだけ手を加えませんでした。 コッツウォルズは豊かな田園地帯でもありますが、ケルムスコットマナーは村や周囲の田園地帯と調和していたため、彼は、まるで「土から生えてきた」ように見えると感じたそう。 庭のばら、水辺の柳から生まれたデザイン 庭には楡(にれ)の並木があり、細い野道が柳の木立を抜けて川まで続きます。 ケルムスコットマナー周辺はすぐ南のテムズ川に流れ込む何本かの支流が流れ、柳が見事に生い茂っています。 モリスの次女、メイ・モリスは、父のモリスと小川のほとりを歩いていて、葉を観察し、ウィローバウができたと語っています。 枝の流れや細長い葉が美しい壁紙です。 ケルムスコットマナーの豊かな自然、季節の移ろいを感じられる庭からのインスピレーションにより、数々のデザインが生み出されたとも言われています。 ロセッティとケルムスコットマナー モリスは、師匠であり友人でもあった画家のダンテ・ガブリエル・ロセッティと共同でケルムスコットマナーを借ります。 様々な活動で忙しくていたモリスは、ロンドンにある家で過ごすことも多かったため、ケルムスコットマナーは妻のジェーン・モリスとロセッティが主に使用していました。 モリスがケルムスコットマナーを借りるに至ったことも、世のスキャンダルから自分たちを守るという意図もあったとされています。 3年後にノイローゼなどの理由でロセッティはケルムスコットマナーを去ります。 その後はモリスと妻子たちが屋敷を使用しました。 屋敷の中のこだわり 屋敷内には、妻のジェーンと娘のメイが手がけた刺繍の作品もあり、モリスの寝室の寝台を飾るファブリックにはモリスの詩をモチーフにしたデザインでの刺繍を行いました。 また、モリスの作品の中では壁紙も有名ですが、ジェーンの部屋は「ウィローボウ」という柳をモチーフにした壁紙が使用されています。 17 世紀初頭の家具から、ラファエル前派の画家兼詩人ダンテ ガブリエル...
モリスの別荘、「地上の楽園」ケルムスコットマナー
ケルムスコットマナーはイングランド南部のコッツウォルズにあるケルムスコットという小さな村にある屋敷で、ウィリアム・モリスが別荘として使用しておりました。 ケルムスコットマナーとは ケルムスコットマナーは、イングランド南部のコッツウォルズにあるケルムスコットという小さな村にあり、ウィリアム・モリスが別荘として使用していました。 1871年にケルムスコットマナーをはじめて見たモリスは「地上の楽園」とも称したそうです。 1570 年頃に建てられもので、歴史的価値の高い建造物としてグレード1の指定を受けています。 モリスが使用するようになってからも、地元で調達した建築資材でこの地方に伝わる建築手法(チューダー様式)で建てられた古い建築の保存にこだわり、この家を真の職人技の作品として愛したモリスは外観を含めできるだけ手を加えませんでした。 コッツウォルズは豊かな田園地帯でもありますが、ケルムスコットマナーは村や周囲の田園地帯と調和していたため、彼は、まるで「土から生えてきた」ように見えると感じたそう。 庭のばら、水辺の柳から生まれたデザイン 庭には楡(にれ)の並木があり、細い野道が柳の木立を抜けて川まで続きます。 ケルムスコットマナー周辺はすぐ南のテムズ川に流れ込む何本かの支流が流れ、柳が見事に生い茂っています。 モリスの次女、メイ・モリスは、父のモリスと小川のほとりを歩いていて、葉を観察し、ウィローバウができたと語っています。 枝の流れや細長い葉が美しい壁紙です。 ケルムスコットマナーの豊かな自然、季節の移ろいを感じられる庭からのインスピレーションにより、数々のデザインが生み出されたとも言われています。 ロセッティとケルムスコットマナー モリスは、師匠であり友人でもあった画家のダンテ・ガブリエル・ロセッティと共同でケルムスコットマナーを借ります。 様々な活動で忙しくていたモリスは、ロンドンにある家で過ごすことも多かったため、ケルムスコットマナーは妻のジェーン・モリスとロセッティが主に使用していました。 モリスがケルムスコットマナーを借りるに至ったことも、世のスキャンダルから自分たちを守るという意図もあったとされています。 3年後にノイローゼなどの理由でロセッティはケルムスコットマナーを去ります。 その後はモリスと妻子たちが屋敷を使用しました。 屋敷の中のこだわり 屋敷内には、妻のジェーンと娘のメイが手がけた刺繍の作品もあり、モリスの寝室の寝台を飾るファブリックにはモリスの詩をモチーフにしたデザインでの刺繍を行いました。 また、モリスの作品の中では壁紙も有名ですが、ジェーンの部屋は「ウィローボウ」という柳をモチーフにした壁紙が使用されています。 17 世紀初頭の家具から、ラファエル前派の画家兼詩人ダンテ ガブリエル...
印刷工房、ケルムスコット・プレスについて
ケルムスコット・プレスはウィリアム・モリスが「理想の書物」を世に送り出すために作った印刷工房です。1891年ロンドンに創設されました。 ケルムスコット・プレス設立の元々のきっかけとしては、1888年にモリスが印刷の専門家であるエマリー・ ウォーカーの講演を聞いたことより、印刷についての関心、そして理想の書物を作る目的から設立に至りました。 モリスにとって理想の書物とは、美しい活字が用いられ、美しい用紙への印刷、美しい装丁での製本がなされることでした。モリスは理想の書物を作ることに対して非常に徹底しており、縁飾りから挿絵(挿絵の枠も含む)などまで、あらゆる装飾要素をデザインしたり、字間・語間・行間・余白などについてもあらゆる検証を行った上で規則がつくられました。また、挿絵については友人の画家バーン=ジョーンズの協力も得ます。ケルムスコット・プレスでの活字は、ゴールデン活字・トロイ活字・チョーサー活字がデザインされました。 1896年に刊行された「チョーサー著作集」については、中世イギリス詩人ジェフリー・チョーサーの著作集であり、ケルムスコットプレスにおける集大成的な作品とも言われます。豚や羊の皮を使った手漉紙に、バーン=ジョーンズの挿絵やモリス自身のデザインした台扉、縁取り、トロイ活字やチョーサー活字などの装飾文字などが使用されています。 モリスは出版に関して、あくまでも手作業での手引印刷にこだわりました。当時のイギリスでは輪転印刷が広まっていた中で、やはり生涯を通して行った手仕事へのこだわりの姿勢がここでも伺われます。ケルムスコット・プレスでは全53書目、66冊の書物が出版されました。1896年にモリスはケルムスコット・プレスにて亡くなるのですが、晩年に至るまで美しい書物にこだわり制作を行っていたモリスの情熱をケルムスコット・プレスでの活動を通して感じられます。
印刷工房、ケルムスコット・プレスについて
ケルムスコット・プレスはウィリアム・モリスが「理想の書物」を世に送り出すために作った印刷工房です。1891年ロンドンに創設されました。 ケルムスコット・プレス設立の元々のきっかけとしては、1888年にモリスが印刷の専門家であるエマリー・ ウォーカーの講演を聞いたことより、印刷についての関心、そして理想の書物を作る目的から設立に至りました。 モリスにとって理想の書物とは、美しい活字が用いられ、美しい用紙への印刷、美しい装丁での製本がなされることでした。モリスは理想の書物を作ることに対して非常に徹底しており、縁飾りから挿絵(挿絵の枠も含む)などまで、あらゆる装飾要素をデザインしたり、字間・語間・行間・余白などについてもあらゆる検証を行った上で規則がつくられました。また、挿絵については友人の画家バーン=ジョーンズの協力も得ます。ケルムスコット・プレスでの活字は、ゴールデン活字・トロイ活字・チョーサー活字がデザインされました。 1896年に刊行された「チョーサー著作集」については、中世イギリス詩人ジェフリー・チョーサーの著作集であり、ケルムスコットプレスにおける集大成的な作品とも言われます。豚や羊の皮を使った手漉紙に、バーン=ジョーンズの挿絵やモリス自身のデザインした台扉、縁取り、トロイ活字やチョーサー活字などの装飾文字などが使用されています。 モリスは出版に関して、あくまでも手作業での手引印刷にこだわりました。当時のイギリスでは輪転印刷が広まっていた中で、やはり生涯を通して行った手仕事へのこだわりの姿勢がここでも伺われます。ケルムスコット・プレスでは全53書目、66冊の書物が出版されました。1896年にモリスはケルムスコット・プレスにて亡くなるのですが、晩年に至るまで美しい書物にこだわり制作を行っていたモリスの情熱をケルムスコット・プレスでの活動を通して感じられます。
ダンテ・ガブリエル・ロセッティの紹介
1856年にウィリアム・モリスと出会い影響を与えた人物、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ。のちのモリス商会のメンバーでもあります。今回はそのロセッティについて紹介します。 ロセッティは1828年にロンドンで誕生しました。幼い頃から美術や文学に関心があり、絵画学校に入学した後、1846年にはロイヤル・アカデミー付属美術学校に入学しました。 1848年3月には、画家のフォード・マックス・ブラウンに弟子入りを志願する手紙を書き、非正式の弟子に入ることを許されます。しかし、自らがラファエル前派でも反発していた古典的な技法をブラウンが教えることから、ブラウンの元を去ることになります。 同じ頃1848年には、ハントやミレイらの若い画家メンバーたちとラファエル前派を結成しました。ラファエル前派については以前の記事をご参照ください。19世紀当時の美術のあり方に異を唱えて活動していたラファエル前派の思想に、その後モリスやバーン=ジョーンズは影響を受け、その後「アーツ・アンド・クラフツ運動」が起こることに繋がっています。しかし当時のラファエル前派は、ラファエロの名を汚したとして世間からの批判も浴びることが多く、その後のロセッティの作品にはラファエル前派の名を語ることはありませんでした。公的な展示などを行わないものの、ロセッティの水彩画は売れ行きがよく、美術評論家のジョン・ラスキンにも知り合います。その後ロセッティは1856年にオックスフォードの学生であったモリスとジョーンズに出会い、オックスフォード大学の学生会館の天井・壁画制作を共に行うなどしました。 ロセッティの作風としては水彩画を扱うことは聖書、アーサー王、ダンテなど文学的な要素を持つテーマで様々でしたが、後期は主にモデルを使った女性画の作品がほとんどでした。ロセッティは女性関係が派手なことも有名で、作品によく登場するモデルのファニー・コンフォース(妻・リジーの死後間も無くから関係が始まりました)や、モリスの妻のジェーン・モリスとの愛人関係がありました。特にジェーンをモデルにした作品は数多く、関係も亡くなる頃まで続きました。複雑な関係であったが故に、その後のモリス商会のメンバーからもロセッティは外れることになります。不倫関係をきっかけに最後は疎遠になってしまったロセッティとモリスでした。 しかしながら、当初は聖職者を目指していたモリスが画家、及び室内装飾などの芸術の道を志すことになったのは、友人のジョーンズやその師匠であったロセッティとの出会いがきっかけでした。短命であったラファエル前派ですが、その意志を継ぎ「アーツ・アンド・クラフツ運動」が全世界に広まったことは、ロセッティとの出会いやその芸術性が影響していると言えるでしょう。
ダンテ・ガブリエル・ロセッティの紹介
1856年にウィリアム・モリスと出会い影響を与えた人物、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ。のちのモリス商会のメンバーでもあります。今回はそのロセッティについて紹介します。 ロセッティは1828年にロンドンで誕生しました。幼い頃から美術や文学に関心があり、絵画学校に入学した後、1846年にはロイヤル・アカデミー付属美術学校に入学しました。 1848年3月には、画家のフォード・マックス・ブラウンに弟子入りを志願する手紙を書き、非正式の弟子に入ることを許されます。しかし、自らがラファエル前派でも反発していた古典的な技法をブラウンが教えることから、ブラウンの元を去ることになります。 同じ頃1848年には、ハントやミレイらの若い画家メンバーたちとラファエル前派を結成しました。ラファエル前派については以前の記事をご参照ください。19世紀当時の美術のあり方に異を唱えて活動していたラファエル前派の思想に、その後モリスやバーン=ジョーンズは影響を受け、その後「アーツ・アンド・クラフツ運動」が起こることに繋がっています。しかし当時のラファエル前派は、ラファエロの名を汚したとして世間からの批判も浴びることが多く、その後のロセッティの作品にはラファエル前派の名を語ることはありませんでした。公的な展示などを行わないものの、ロセッティの水彩画は売れ行きがよく、美術評論家のジョン・ラスキンにも知り合います。その後ロセッティは1856年にオックスフォードの学生であったモリスとジョーンズに出会い、オックスフォード大学の学生会館の天井・壁画制作を共に行うなどしました。 ロセッティの作風としては水彩画を扱うことは聖書、アーサー王、ダンテなど文学的な要素を持つテーマで様々でしたが、後期は主にモデルを使った女性画の作品がほとんどでした。ロセッティは女性関係が派手なことも有名で、作品によく登場するモデルのファニー・コンフォース(妻・リジーの死後間も無くから関係が始まりました)や、モリスの妻のジェーン・モリスとの愛人関係がありました。特にジェーンをモデルにした作品は数多く、関係も亡くなる頃まで続きました。複雑な関係であったが故に、その後のモリス商会のメンバーからもロセッティは外れることになります。不倫関係をきっかけに最後は疎遠になってしまったロセッティとモリスでした。 しかしながら、当初は聖職者を目指していたモリスが画家、及び室内装飾などの芸術の道を志すことになったのは、友人のジョーンズやその師匠であったロセッティとの出会いがきっかけでした。短命であったラファエル前派ですが、その意志を継ぎ「アーツ・アンド・クラフツ運動」が全世界に広まったことは、ロセッティとの出会いやその芸術性が影響していると言えるでしょう。
ウィリアム・モリスとラファエル前派
ウィリアム・モリスの生涯を語るにあたり、「ラファエル前派」という単語が要所要所に登場します。 今回は「ラファエル前派」について紹介いたします。 ラファエル前派とはイギリスで19世紀の中盤から後半にかけて活躍した芸術家のグループの芸術形式のことです。 19世紀の中盤当時、ルネサンスの巨匠であるラファエロを理想とした古典的に偏った重々しい芸術が主流となっていた中、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイらを含む7人の若い画家が集まり異を唱えるべく結成したのが「ラファエル前派兄弟団」でした。 彼らはラファエロ以前の、初期のイタリアルネサンスやフランドル美術のような自然をありのままに写し出す描き方を行いました。 彼らがラファエル前派兄弟団を結成し、活動を行なっていたことからウィリアム・モリスやその盟友のバーン=ジョーンズらも影響を受けます。 ジョーンズは聖職者を志す最中、芸術の道に進むことを決意し、大学を辞めてロセッティに弟子入りをしています。 またその後モリスもロセッティに師事し、画家を志すようになります。(その後、装飾美術の道へ。) ロセッティ、ジョーンズらと共にオックスフォード・ユニオンの壁画制作への参加も行いました。 その後の1859年に建築されたモリスと妻・ジェーンの新居であるレッドハウス内の装飾美術にもラファエル前派の芸術家たちが協力し、そのデザイン思想が反映された絵画やステンドグラス、工芸品などが施されました。 レッドハウスの建築に関わる部分以外にも、ラファエル前派兄弟団の周辺にはモリスを始めとする多才な芸術家たちが集まりました。 この流れがモリスを中心としたのちの「アーツ・アンド・クラフツ運動」に繋がっています。 ラファエル前派兄弟団自体は、方向性の違いなどにより1852年には解散されてしまい、5年ほどの活動期間で短命であったとは言えますが、芸術全体を改革しようとする意志が、手工芸の復興や生活と芸術を一致させようとしたアーツ・アンド・クラフツ運動へと広がりを見せ、モリスやジョーンズらが芸術の道を目指した軌跡も、ラファエル前派の流れがあったからこそなので、その影響力は強かったと言えます。
ウィリアム・モリスとラファエル前派
ウィリアム・モリスの生涯を語るにあたり、「ラファエル前派」という単語が要所要所に登場します。 今回は「ラファエル前派」について紹介いたします。 ラファエル前派とはイギリスで19世紀の中盤から後半にかけて活躍した芸術家のグループの芸術形式のことです。 19世紀の中盤当時、ルネサンスの巨匠であるラファエロを理想とした古典的に偏った重々しい芸術が主流となっていた中、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイらを含む7人の若い画家が集まり異を唱えるべく結成したのが「ラファエル前派兄弟団」でした。 彼らはラファエロ以前の、初期のイタリアルネサンスやフランドル美術のような自然をありのままに写し出す描き方を行いました。 彼らがラファエル前派兄弟団を結成し、活動を行なっていたことからウィリアム・モリスやその盟友のバーン=ジョーンズらも影響を受けます。 ジョーンズは聖職者を志す最中、芸術の道に進むことを決意し、大学を辞めてロセッティに弟子入りをしています。 またその後モリスもロセッティに師事し、画家を志すようになります。(その後、装飾美術の道へ。) ロセッティ、ジョーンズらと共にオックスフォード・ユニオンの壁画制作への参加も行いました。 その後の1859年に建築されたモリスと妻・ジェーンの新居であるレッドハウス内の装飾美術にもラファエル前派の芸術家たちが協力し、そのデザイン思想が反映された絵画やステンドグラス、工芸品などが施されました。 レッドハウスの建築に関わる部分以外にも、ラファエル前派兄弟団の周辺にはモリスを始めとする多才な芸術家たちが集まりました。 この流れがモリスを中心としたのちの「アーツ・アンド・クラフツ運動」に繋がっています。 ラファエル前派兄弟団自体は、方向性の違いなどにより1852年には解散されてしまい、5年ほどの活動期間で短命であったとは言えますが、芸術全体を改革しようとする意志が、手工芸の復興や生活と芸術を一致させようとしたアーツ・アンド・クラフツ運動へと広がりを見せ、モリスやジョーンズらが芸術の道を目指した軌跡も、ラファエル前派の流れがあったからこそなので、その影響力は強かったと言えます。
ウィリアム・モリスが過ごしたレッドハウス
レッドハウスとは レッドハウスは、モリスが友人の建築家フィリップ ウェッブと協力して建てた自邸です。 ジェーンとの結婚を決めたモリスは、1858年の秋にケント州のアプトン村の近くのベクスリー・ヒースに果樹園と牧草地を見つけて土地を購入しました。 そこに家を建てれば、リンゴとサクラの樹に囲まれて暮らせるという点が気に入ったからだといいます。 レッドハウスは、1859~1860年に建設され、モリスとジェーンは新婚時代を過ごしました。 モリスとウェッブは、1858 年の夏にセーヌ渓谷を旅し、途中で中世の建物をスケッチしながら、この家のデザインのインスピレーションを得ました。 バーン=ジョーンズや当時の師である画家のロセッティらも内装に協力しました。 外観は中世ゴシックを思わせる二階建ての住宅。 レンガを積み上げた赤い外壁に木々の緑が壁を覆っています。 急勾配の赤い瓦葺き屋根にはいくつも取り付けられた煙突。 また様々な形の窓が、重厚な外観に軽やかなリズムを奏でています。 庭園からレッドハウスを見て正面に見えるとんがり帽子のような屋根は井戸。 デザイン上のアクセントになっています。 外観だけではなく、内装にも生活と芸術の一致を目指したモリスらしいデザイン思想が散りばめられています。 レッドハウスへの入り口 細部までこだわる内装デザイン モリスはレッドハウスの内部装飾のために、壁紙、家具、窓(ステンドグラス)など様々な箇所を仲間との協力でデザインしました。 美しいエントランスホール 控えめなアーチ型のポーチを通って家に入ると、家の中で最も美しいエントランスホールに出ます。 玄関ホール 右側にはベンチと食器棚を組み合わせたような家具。 ウェッブがこの家のためにデザインしました。 緑の部分は食器棚。ドアパネルはマロリーの『アーサー王の死』の一場面をモリスが描きました。 ...
ウィリアム・モリスが過ごしたレッドハウス
レッドハウスとは レッドハウスは、モリスが友人の建築家フィリップ ウェッブと協力して建てた自邸です。 ジェーンとの結婚を決めたモリスは、1858年の秋にケント州のアプトン村の近くのベクスリー・ヒースに果樹園と牧草地を見つけて土地を購入しました。 そこに家を建てれば、リンゴとサクラの樹に囲まれて暮らせるという点が気に入ったからだといいます。 レッドハウスは、1859~1860年に建設され、モリスとジェーンは新婚時代を過ごしました。 モリスとウェッブは、1858 年の夏にセーヌ渓谷を旅し、途中で中世の建物をスケッチしながら、この家のデザインのインスピレーションを得ました。 バーン=ジョーンズや当時の師である画家のロセッティらも内装に協力しました。 外観は中世ゴシックを思わせる二階建ての住宅。 レンガを積み上げた赤い外壁に木々の緑が壁を覆っています。 急勾配の赤い瓦葺き屋根にはいくつも取り付けられた煙突。 また様々な形の窓が、重厚な外観に軽やかなリズムを奏でています。 庭園からレッドハウスを見て正面に見えるとんがり帽子のような屋根は井戸。 デザイン上のアクセントになっています。 外観だけではなく、内装にも生活と芸術の一致を目指したモリスらしいデザイン思想が散りばめられています。 レッドハウスへの入り口 細部までこだわる内装デザイン モリスはレッドハウスの内部装飾のために、壁紙、家具、窓(ステンドグラス)など様々な箇所を仲間との協力でデザインしました。 美しいエントランスホール 控えめなアーチ型のポーチを通って家に入ると、家の中で最も美しいエントランスホールに出ます。 玄関ホール 右側にはベンチと食器棚を組み合わせたような家具。 ウェッブがこの家のためにデザインしました。 緑の部分は食器棚。ドアパネルはマロリーの『アーサー王の死』の一場面をモリスが描きました。 ...
ウィリアム・モリスの盟友 バーン=ジョーンズ
ウィリアム・モリスの生涯の友人(エドワード・コリー・バーン=ジョーンズ)は、画家としても著名であり、モリスやアートアンドクラフツ運動の中でも大きな存在の人物です。 1853年、モリスが聖職者を目指して入ったオックスフォード大学エクセター・カレッジで二人は出会いました。学生生活のなかでモリスとジョーンズは、ジョン・ラスキンの思想や建築・美術を通じてラファエル前派に興味を抱き、聖職者ではなく、ジョーンズは画家、モリスは建築家を志すようになりました。 その後1856年、バーン=ジョーンズは憧れていた芸術家のロセッティに従事するためロンドンに移り住み修行を積みます。その熱心な姿からロセッティよりアトリエを明け渡して貰う事になり、モリスもそこに同居し始めます。その後もバーン=ジョーンズはロセッティが製作していたオックスフォード大学の学生会館の天井・壁画制作にモリスとともに参加したり、ステンドグラスの下絵の作成を行ったりと精力的に画家への道を進んで行きました。 1861年には「モリス=マーシャル=フォークナー商会」が立ち上がります。モリスを中心にバーン=ジョーンズやロセッティらも参加しました。モリスの自邸の「レッドハウス」の建築をきっかけに発足した商会は、室内装飾の全てを手がける意識を持ち、機械作業や産業革命化社会へのアンチテーゼの意志もありました。 バーン=ジョーンズは商会の中で、ステンドグラスやタペストリーなどのデザインを手がけます。特にステンドグラスの伝統の復活には力を入れて製作活動を行いました。画家としてもキャリアを積み上げながら、晩年のモリスが設立した「ケルムスコットプレス」の製本内にもデザインを提供します。 生涯の盟友でありビジネスパートナーでもあったウィリアム・モリスとバーン=ジョーンズ。お互いのメインコンテンツは違えど、芸術や美的感覚に関する価値観に重なるビジョンがあったからこそ、長年協力し合いながら、あらゆる功績を伴う製作や活動につながったのでしょう。
ウィリアム・モリスの盟友 バーン=ジョーンズ
ウィリアム・モリスの生涯の友人(エドワード・コリー・バーン=ジョーンズ)は、画家としても著名であり、モリスやアートアンドクラフツ運動の中でも大きな存在の人物です。 1853年、モリスが聖職者を目指して入ったオックスフォード大学エクセター・カレッジで二人は出会いました。学生生活のなかでモリスとジョーンズは、ジョン・ラスキンの思想や建築・美術を通じてラファエル前派に興味を抱き、聖職者ではなく、ジョーンズは画家、モリスは建築家を志すようになりました。 その後1856年、バーン=ジョーンズは憧れていた芸術家のロセッティに従事するためロンドンに移り住み修行を積みます。その熱心な姿からロセッティよりアトリエを明け渡して貰う事になり、モリスもそこに同居し始めます。その後もバーン=ジョーンズはロセッティが製作していたオックスフォード大学の学生会館の天井・壁画制作にモリスとともに参加したり、ステンドグラスの下絵の作成を行ったりと精力的に画家への道を進んで行きました。 1861年には「モリス=マーシャル=フォークナー商会」が立ち上がります。モリスを中心にバーン=ジョーンズやロセッティらも参加しました。モリスの自邸の「レッドハウス」の建築をきっかけに発足した商会は、室内装飾の全てを手がける意識を持ち、機械作業や産業革命化社会へのアンチテーゼの意志もありました。 バーン=ジョーンズは商会の中で、ステンドグラスやタペストリーなどのデザインを手がけます。特にステンドグラスの伝統の復活には力を入れて製作活動を行いました。画家としてもキャリアを積み上げながら、晩年のモリスが設立した「ケルムスコットプレス」の製本内にもデザインを提供します。 生涯の盟友でありビジネスパートナーでもあったウィリアム・モリスとバーン=ジョーンズ。お互いのメインコンテンツは違えど、芸術や美的感覚に関する価値観に重なるビジョンがあったからこそ、長年協力し合いながら、あらゆる功績を伴う製作や活動につながったのでしょう。